片山恭一講演会 「原発は人間・文学と真っ向対立する」

130623katayamakoen 6月23日、作家の片山恭一さんは、愛媛大学の南加記念ホールで講演を行いました。「伊方原発をとめる会」が主催し、約200人の参加がありました。

片山さんは、文学は「人間の概念を拡張」するということから語りはじめました。それはいろいろな生き様を読み「人間の振幅は果てしなく広い」ことを知ることであり、さらに「現にある自分を離れてより広く、より長いタイム・スパンで対象を捉える」。それは「自由」であり、「過去と未来を貫いて人類全体を眺望しうるもの」で、いかにして人は自由であり得るか、主体的に生きることができるか。それを考えるのが文学だと語りました。
それに対して、核エネルギーというのは、文学のめざす方向性と志向性に真っ向から対立する。人間の技術について本質的な検討を加えたハイデガーを紹介しつつ、原子力発電は一歩間違えば、取り返しの付かない放射能災害を引き起し、放射性廃棄物は何万年にもわたって管理しなければならない。私たちが非常に強い技術的な束縛の下に生きているだけではなく、未来の人たちの自由や主体性を奪うことになると語りました。

第2節では、話は漱石や鴎外の作品にふれ、さらに近代文学と「恋愛」について語ります。自由や平等が社会的に実現する可能性が見えない中で、当時の文学者たちが女性との関係を「対等な人間として対処する」「弱い立場に付け入ることなく公正に」扱おうとした。それは、彼らが主体的であろう、自由であろうとしたのであり、また、それは他者との関係からも言える。相手の主体性を認めなければ、自分の主体性も実感されないからだ。
「欲望」においても、自分の欲しいものを買うかわりに、好きな人のプレゼントを買う。ことさらな禁欲意識もなくそういうことができてしまう。自分が食べるつもりだった食べ物を誰かにあげて、それを食べた相手が思わず笑みをもらしたとき、「美味しい」という感覚は生まれたと思う。決して自分一人でつくり出すことはできない。原発をなくすことについても、「未来に生まれて来る人たちに、安心して生活できる環境をプレゼントして、彼らがニコッと微笑んでくれることを、ぼくたち自身の幸せにすればいいわけです」と語りました。

第3節では、新たに出版する書籍で「ぼくたちはどのような自己を生きているのだろうか」を問いかけたかったと言います。経済格差のもとで、目に見えないところで誰かを虐げたり誰かのものを奪ったりしているのではないか。そうした不安や懸念、不快感、嫌悪感がリアルに存在していて、問題化しなくてはならないと語ります。原発事故によって苦しむ人がたくさんいてその実態は顕在化しているが、原子力発電という技術を採用した社会においては、潜在的に多くの被害者がいて、だれもが被害者でありうる社会に生きている。
「原発から離脱することは、不正で不当なことにかかわっている自分から離脱することであり、経済成長や大量消費はいい加減に切り上げる。みんなで豊かに幸せに貧しくなっていく。そのことで他者を公正に扱おうとする。それは十分に、ぼくたちが生きるモチーフになります。そこには、恋愛と同じモチーフが、同じ情動が流れている。しかも、恋愛と違って賞味期限がない。高齢化社会へ向かっている日本の社会においては、一つの未来イメージになるのではないか。」片山さんは、こう締めくくりました。

(講演後の質疑・意見もたくさん出て、それによっていっそう深まったと感じました。講演の全文は、片山さんの公式ホームページ http://www.kkatayama.net/ ボタンの一番右にある「ブログ」欄に掲載されています。)

この日は、講演に先立って、新居浜協立病院に勤務し、世界反核医師の会に所属しておられる曽根康夫医師から 「フクシマの被ばく問題」と題するサブ報告もありました。(別途報告します)
写真は、講演終了後、希望者が講師の片山さん、サブ報告者の曽根さんの周りに集まり撮影したものです。

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